ーー中学時代ーー
「俺はさあ、あの子のこと好きなんだよね」
「俺は体育祭楽しみだなあ」
「俺は文化祭楽しみだなあ」
「俺はこの本好きだわ」
「俺数学割と好き」
「俺本読むの好きだけど国語は嫌い」
「僕は、この学校で勉強したかったのでこの学校に来ました…」
ーー高校時代ーー
「俺は水泳でもっとはやくなりてぇわ」
「俺は、、、僕は物理の勉強しなくちゃいけない」
「僕らは、英語やっといたほうがこれからのためだから」
「僕はさあ、あのアニメ好きなんだけどお前はどう?」
「僕はあの人の考え方があまり好きじゃないな」
人称について
高校時代の最初のころまでは人称なんて気にもならなかった。自分の名前を呼ぶ人、あたし、わたし、うち、僕、俺、自分。いろんな言い方をみんなしていた。ただ年齢を重ねるにつれ、意識する必要がある場面が多くなった。例えば、学校の先生との対話や学校の面接。学校の友達や家族といるときは「俺」の人称だったのに、なぜだか人前や目上の人と話すときには、「僕」や「私」を起用しているわけだ。そうしていくうちにどんどん「僕」を利用する時間が増えていった。
よくよく考えてみると不思議でしかない。なぜわざわざ変えなければいけないのか。変える必要はなかったはず。
しかし子供ながらに、人称について考え方を持っていたのかもしれない。「僕」のほうが、柔らかいイメージがあるとか、丁寧な口調であるとか、、このようなイメージを持っていたのかもしれない。あるいは変えるように教育を徐々にされてきたのかもしれない。今となっては真偽のしようがないが。
中学時代まではすごく自信に満ち溢れていてなんでもできるような気がした。でもただの自信でしかなったとすぐに分かってしまった。何でもできると思ったけど自分にできることは非常にしょぼいものだった。
ある瞬間に「俺」という存在の幼さのようなものを感じた。
「俺」という人格の時はすごく自信があって、なんでも楽しみたいし、楽しくないことはやりたくねえな、、、そんな感じだった。
「僕」という人格の時はより俯瞰的に物事を見ていて、何かと屁理屈を考えているような、、、そんな感じ。。
「私」を利用するときは異性、というか性別の意識をされたくないな、、、というような感じだ。
小さな社会コミュニティの中で、自分なりにうまくやり過ごすやり方が人称をうまく利用することだったのかもしれない。そうやって、過去の自分のアイデンティティを脱ぎ捨てて、コミュニティに紛れ込もうとしていたのだろうか。
「俺は、、、」
これを言う機会すら減っているような気がする。
友達が少ないのは別問題(´;ω;`)
そんなことより、、、
私以外の人も 同様の経験があるかもしれない。あるいは「俺」や「僕」などをうまく使い分けている人もいるかもしれない。
今はもう、私は「俺」という意識は非常に薄れてしまっているように感じて、「俺」という存在に哀愁を感じてしまう。中島敦の山月記や、森鴎外の青年や、夏目漱石の三四郎でも「おれ」という人称を利用しているので恥ずかしいとかそういう感情は必要なかったのに…
私は「俺」という意識を失いつつある。
参考に…
👇俺の歴史変化
http://www.oit.ac.jp/japanese/toshokan/tosho/kiyou/2188-9007/61-2/61-2-01web.pdf
👇明治期の一人称
http://ypir.lib.yamaguchi-u.ac.jp/bg/file/1625/20180307101421/BGN0052000009.pdf
歴史もあるんですね。