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半分気楽に半分まじめに(*´ω`)

「AI崩壊」と「デトロイト」から考える映画を見るか、ゲームをするか

 

 「AI崩壊」というタイトルが平成臭く、AI -->>  崩壊という考えになるのは時代遅れ感を感じるのは私だけでしょうか?また天才AI開発者が「AIがなんでいうことを聞かない…!?」という頭悪そうなセリフに、陳腐な感じがした。まぁ分かりやすくするためにはしょうがないのかもしれない。

 

 

 

 

ただの個人的な意見はさておき、今回は「映画を見ること」と「ゲームを体験すること」についていろいろ私の考えなどを述べていきたい。

とくに今回は「Detroit Become Human」を主に取り上げながら考えようと思う。ちなみに👇

www.jp.playstation.com

まずは映像の歴史から

1891年にトーマスエジソンによってキネトスコープが作成される。これによって全米に映像が広まる。

www.youtube.com

そして1895年フランスのリュミエール兄弟によってシネマグラフが公開され、初めて映画として誕生した。

www.youtube.com

ここから世界大戦や映像の技術的進歩やビジネス化などと共にどんどん映像が進化し、今ではスマートフォンやPCからお手軽に映像を見ることができるようになり、ゲームによって映像に没入しながら体験できるようになった。

 

話題に入って行こう。一般的に

映画とは

動画や音を通してストーリーを楽しむ娯楽。また監督の思い描いている世界観を映像で表現したものが多い。(受動的な達成感が得られる)

ゲームとは

課題を解決する遊びであり、シナリオやキャラクター、BGMや効果音を組み合わせて新しい遊びを生み出すもの。時間が無限であったり、遊ぶユーザーによって世界観が異なる場合もある。(能動的な達成感が得られる)

 

ここから二つの作品とともに比較していく

 AI崩壊

その日、AIが命の選別を始めた。

 

2030年--わずか10年後の未来。

働ける人間は国民の50%、未来を担うこどもは10%未満、残り40%は老人と生活保護者。国家として崩壊寸前の日本において、AIは全国民の個人情報、健康を完全に管理し、人々の生活に欠かせないライフラインとなっていた。だがそんな”人に寄り添う”はずのAIが突如暴走、年齢、年収、家族構成、病歴、犯罪歴等から人間の生きる価値を選別し、殺戮を始めた!国中が未曽有の大混乱に陥る!

AIを暴走させたテロリストとして、警察の捜査線上に浮かび上がったのは、開発者である天才科学者、桐生だった!彼は自身の開発したAIに対する国の認可が間に合わす妻となくした過去を持っていた。逮捕される寸前に逃亡を図る桐生、追うのは最新のAI監視システムを駆使する警察庁のサイバー犯罪対策課。AIはなぜ暴走したのか。決死の逃亡劇は予想もしない方向へと進んでいく!

 

 Detroit:Become Human

自由には代償が伴う

 

 西暦2038年のアメリカ・デトロイト。AI技術とロボット工学の発達により、人間そっくりのアンドロイドが製造されるようになり、人間は過酷な労働から解放されようとしていた。それにより人類は更なる経済発展を手に入れる一方で失業率が増大。貧富の格差が拡大していった。アンドロイドによって職を奪われた人々は反アンドロイド感情を持つようになり、排斥運動にまで発展していった。 2038年8月、家庭用アンドロイドが所有者を殺害し、所有者の娘を人質に立てこもる事件が発生した。そのアンドロイドはまるで意思や感情を持つようで「変異体 (Deviant)」と名付けられた。以後、変異体はその1体にとどまらず、増え続けていった。「変異体」には、与えられた仕事を放棄し逃亡したり、中には人類からの解放を叫び「革命」を起こそうとする者もいた。アンドロイドは単なる「便利な機械」なのか?それとも、生きているのか?人類は、新たな課題に直面する。 

  •  共通点
  1. アンドロイドや人間とのかかわり方という話題
  2. 時代設定
  3. 没入感
  4. 格差や高齢化に対する問題意識
  5. 風景のリアリティ
  • 相違点 

AI崩壊は主人公たちに感情移入して俯瞰的に物語を見ることになり、デトロイトは主人公(アンドロイド)になりきって物語を構築してゆくが、3人それぞれを自分で操作してその行動によって新しい分岐が生まれて主観的に物語を体験している(ゲーム中では分岐はフローチャートとして表現されている)。また予想ではあるがAI崩壊は「なぜ」この社会になったのか、「なぜ」AIが重視されたのかなどの「論理性」を求めた作品になるだろう。デトロイトではなぜかあいつと出会って、なぜか特殊能力を持っている、なぜかあいつが攻撃するなど「偶然性」を求めている。さらに個人的なことだが、デトロイトでは自分でやっただけでなく、そのあとにyoutuberなどの配信者がどのような行動をするのか、心情がどのように変化するのか見ることができるのが極上の体験ともいえるかもしれない。

 

ちなみに好きな配信👇

www.youtube.com

www.youtube.com

www.youtube.com

 

 

 

このように映画は非現実的現実(論理性)、ゲームは現実的非現実(偶然性)を表現することが多いように感じる。時代の流れとともに、この偶然性こそが我々の欲求を満たすものになる可能性が高いと思った。この偶然性はゲーム内において、ある種の合理性(ポケモンにはポケモンがいてトレーナーがいて、ポケモン同士でバトルができるということをプレイヤーが納得する事)をもっているのがゲームのイイところかもしれない。またゲームには自主性と客観性があり、自分や他者が何かアクションをしたり、コミュニケーションをとったりするなどの高度な行為をしているともいえるだろう。

結論

映画を見るという行為はより文化的になり、ゲームを体験することが、単純なルーチン的娯楽から、芸術的営みに代わってくる作品が増えるのではないだろうか(未来を創る、過去を構築するのは映画よりもゲームのほうが多くなるみたいなことを指している)。そして社会性を帯びていくこととなる。ゲームに高度な操作と知識が必要かもしれないが、これから我々は映画館という小さな(物理的な意味ではない)箱の中に飽き足らず、バーチャル空間へと移行し新たな創造をするのだろう。そして本来、体験ができないことをゲームは時や場所を超えて可能にするのだろう。

 

 

 

 

ゲームを馬鹿にするババアがいたら言ってやりたい。

 

 

「あなたは世界に存在しない。」とな!

 

 

 

 

 ~追記~

シンギュラリティに対する意識を持った生活が大事な社会となっていく中で、我々の存在意義や誰と共存していくかなどの選択が今のうちにちゃんとできるはずなので、考えを深めるいい機会だと思うのでぜひとも映画もゲームも皆さんにしてほしい!

 

wwws.warnerbros.co.jp

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【PS4】Detroit: Become Human Value Selection

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